ショパンの初恋の人

コンスタンツヤ・グワトコフスカの肖像。アンナ・ハミェツ作。
Wゲルソンのデッサンにもとづくミニチュア。水彩、グワッシュ。1969年。

コンスタンツヤ・グワトコフスカ Konstancja Gladkowska(1810-1889)は、ポーランドのソプラノ歌手。王宮の役人の娘で、1826年にワルシャ ワ音楽院に入りカロル・ソリヴァに師事、弟子の中でも一番優秀な学生であるだけではなく一番 の麗人でもあると評判でした。彼女は在学中からワルシャワ・オペラの特待生として国費で卒業 しました。

1830年7月24日、彼女はワルシャワ国立歌劇場においてパエールのオペラ『ア ニェーゼ』の主役でデビューしました。

彼女はデビュー後間もなくして舞台を捨て、1831 年にユーゼフ・グラボウスキという資産家の貴族と結婚し、5人の子の母となりました。彼女は 貧血症に悩まされ、またしばしば眼瞼麦粒腫に苦しめられており、よく眼帯をしていました。こ れが原因か定かではありませが、35歳で失明してしまいま した。

彼女は晩年になってカラソフスキの書いたショパンの伝記を読んで初めてショパン の自分に対する気持ちを知り驚いたと伝えられています。

【ショパンとの関連】

*ワルシャワ音楽院の生徒であったショパンは1829年4月21日、声楽科の ソリヴァ教授が企画した音楽院の学生による発表会で初めて、コンスタンツヤを見かけ、たちま ちその虜になりました。

その学生演奏会から数カ月後にショパンは彼女と知り合う機会が あり、ようやく他の友人と一緒に歌の練習をする時に彼女と近づきになりました。その後は頻繁 に、彼女の歌の伴奏を引き受けたり、自分の新作を彼女の前で弾いて聴かせたりしました。また、 彼女の次の役としては何がいいか、二人で話し合い、オペラに精通していたショパンは、ロッシー ニの『泥棒かささぎ』を勧めました。

*ショパンはコンスタンツヤに歌ってもらいたい動機から 苦手であった歌曲も数曲作りました。

*1830年 5月15日付ティトゥス宛ショパンの手紙の中で「昨晩はソリヴァ先生のお宅でのパーティに行っ ていた。G[グワトコフスカのこと]も来ていて、先生が彼女のために特に作曲してこのオペラ[パ エールの『アニエス』のこと]に挿入されたアリアを歌ったんだ。このアリアは彼女を引き立た せると思う。先生は、この曲のいくつかのフレーズは彼女の声にうまく合わせることができた。」 と書いています。

*1830年7月半ば頃に、大親友のティトゥスの故郷に遊びにいっていたショパ ンは、7月24日のコンスタンツヤのデビューコンサートに行くために、急いでワルシャワに戻っ て来ました。

*1830年8月21日ティトゥス宛の手紙の中で、ショパンはコンスタンツヤのデビュー 演奏会について次のように評価しています。「グワ トコフスカはまず申し分ないできだ。彼女はコンサートホールより舞台のほうがいいんだ。彼女 の演技については言うことなしだ。第1級だ。歌唱については、時々現れる高い嬰ヘ音とト音を 除けば、彼女のクラスにはあれ以上のものは求めないね。」

*1830年8月31日付ティトゥス宛手 紙には「歌唱の点では、グワトコフスカの方がすぐれていて、比べることができない位だ。彼女 が舞台で示した声の清澄さ、抑揚、すぐれた表現力の点で、第2のグワトコフスカは現れないだ ろうと僕達は言っているんだ。ヴォウクフは音程をはずすこともある。僕はグワトコフスカの『 アニエラ』を2度聴いたが、彼女は曖昧な音は1音たりとも出さなかった。」と書いています。

*ショパンのコンスタンツヤへの思いを『ピアノ協奏曲 第2番ヘ短調』の第2楽章や『ワルツop.70-3』に託したことを、1829年10月3日付のティトゥ ス宛の手紙に次のように書いています。「ひょっとするとこれは不幸なことなのかもしれない。 もう半年もの間、一言も口もきかぬままに、僕はこうしてあの理想の人に忠誠を捧げ、夢に見て きた。その思い出ゆえに僕の協奏曲のアダージョができ、そのインスピレーションによって1つ のワルツが今朝できあがったんだ。それが今君に届けようとしているワルツだけど、+印をつけ た箇所に注意してほしい。君以外は誰も知らないことなんだ。今すぐに君に弾いて聞かせられな いのが本当に辛い。」

*ショパンは自分の送別演奏会にコンスタンツヤにも出演してもらうため、 みずから当局と交渉して許可の獲得にありました。 このことについて1830年10月5日付のティトゥス宛手紙に次のように書いています。「許可をと るまでに、僕がどんなに苦労したか君には想像できまい。イタリア人[ソリヴァのこと]は大変喜 んで承諾したが、僕はもっと権威のあるモストフスキ[内務大臣]に申し出なければならなかった んだ。彼も許可してくれた。」

*ショパンのポーランド出国の数日前、1830年10月25日にコンス タンツヤに会い、記念帳に何か書いてほしいと頼みました。彼女は9ページと12ページに次のよ うな二篇の意味深長な四行詩を書き込みました。「移りゆくのは人の世の悲しい定め/あなたも 私達も避けることができません/いずこに行こうと、心に留めて下さい/ポーランドでは何が起 ろうとあなたは愛されているということを。」(9ページ)、 別のページのもう一篇は「あなたの栄光の冠を不滅にするため/あなたは親しい友や家族を去っ て行く/異国の人たちはあなたをより一層敬うかもしれません/でも、私達以上にあなたを愛す ることはできないでしょう。」(12ページ)

*1830年10月11日のショパンのワルシャワでの送別演 奏会にコンスタンツヤも出演し、ロッシーニ作曲の『湖上の美人』からカヴァティーナを選んで 独唱しました。この時の模様をショパンは翌日付のティトゥス宛の手紙に「彼女は真白なドレス を着て髪にはバラをつけていたが、とてもよく似合っていた。『湖上の美人』のカヴァティーナ を歌ったが、この間の『アニエラ』のアリアを別にすれば、今までこれほど上手に歌ったことは ない。」と書いています。

*ショパンがポーランド で過ごす最後の数週間、ショパンとコンスタンツヤの仲は急速に深まり、一説によると出発前日 の1830年11月1日にサスキ公園で指輪の交換をし、ヤン・マトゥシンスキに密使になってもらい、 必ず手紙を書くとショパンは彼女に誓ったというが、真偽の程はわかっていません。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です