ショパンの名付け親

フリデリック・F・スカルベクの肖像。ゴワコフスキ作。リトグラフの複製。

フリデリック・スカルベク Fryderyk Skarbek 19世紀初頭、ショパンの生まれ故郷であるジェラゾヴァ・ヴォーラの領主であったスカルベク家 の長男で、のちにショパンの名付け親となった人です。

ショパンの父ミコワイの生徒でもあり、18歳頃パリに留学しました。のちにすぐれた経済学の教 授(ワルシャワ大学)となり、歴史学者でもあり、さらには小説家、喜劇作家としてポーランド 文化史上に名を残す多芸多才の人物です。ショパンについての信頼すべき記録も書き残していま す。

フリデリック・スカルベクの父親であるスカルベク伯爵は、領主とはいえ、貧しい農村地帯にさ して広くもない土地しかなく、収入も限られ、ついには破産してしまいました。そして、債権者 の取り立てから逃れるため、膨大な借金を残したまま国外に逃亡してしまいます。

困り果てた母親のルドヴィカ・スカルベクは家名と財産を守るために懸命の努力をし、夫となん とか離婚し、4人の子供と一緒にジェラゾヴァ・ヴォーラで暮らしていました。

屋敷内には当時の習慣で、親戚の少し貧しい者たちが住みこみ、話し相手と家事手伝いを務めて いました。のちにショパンの母となるユスティナ・クシジャノフスカ嬢もその中の1人でした。

1802年からは子供達の住み込み家庭教師として、のちにショパンの父となるミコワイ・ショパン が雇われたのです。そして、この家で出会った二人はやがて結婚し、ショパンが誕生することに なります。

【ショパンとの関連】

*1810年4月23日に聖ロフ教会でショパンの洗礼式が行われた際、ショパンの名付け親(教父: ゴッドファーザー)となったのが、フリデリック・スカルベクで、自分の名フリデリックをショ パンに与えました。

*1817年、ショパンが7歳の時にはじめて作曲した、ト短調の『ポロネーズ』はフリデリック・ スカルベクの援助で、同年に自費出版されました。この曲はフリデリック・スカルベクの妹にあ たるヴィクトリア・スカルベクに献呈されています。

*1823年5月5日のショパンの聖名 祝日の祝いに、フリデリック・スカルベクはジャン・ニコラ・ブイイ著「若さの奨励」全2巻を 贈りました。この本は現在も残っていて、ワルシャワ博物館が所蔵しています。

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