ショパン家には4人の子供がいましたが、男の子はショパン一人だけで、残り三人は女の子でした。
1807年生まれの長女ルドヴィカ、その下に1810年生まれの長男フリデリック・ショパンが続き、1811年生まれの次女イザベラ、そして、1812年生まれの末っ子、三女のエミリアという構成です。
今日は、ショパンの一番下の妹であるエミリアについての記事です。
エミリア・ショパン Emilia Chopin ( 1812年11月20日~1827年4月10日)
ショパン家の三女。ショパンの2歳ちがいの妹です。一般には1812年生まれとされていますが、1813年生まれという説もあります。
子供の頃から優れた芸術的な才能を発揮し、ポーランド語やフランス語で詩や戯曲、小喜劇を創作していて、フリデリック・ショパンに続き、ショパン家の2人目の神童として通っていました。
ショパンが通学していたワルシャワ高等学校の校長であるリンデ先生の家人のアルバムの中に、エミリアが創作した次のようなフランス語の詩が残っています。
死ぬことは私の天命
死は少しも怖くはないけれど
怖いのは貴方の
記憶の中で死んでしまうこと
またエミリアの最後の作品群の中には、次のような哲学的な一節もあります。
この地上、人の定めの何と悲しいこと
苦しんで、また隣人の苦しみを増すなどは!
1824年の冬にショパンとともに『勘違い、もしくは想像上の恋のたわむれ』という題の一幕物韻文喜劇を書き、他の姉妹と一緒に父の聖名祝日に演じたといわれています。ただ、残念ながらこの台本は紛失して残っていません。
また1825年には次女のイザベラとともに、ドイツの作家ザルツマンの教育的な話を翻訳するなど、彼女の文学上の才能には豊かな未来が約束されていましたが、残念ながら、1827年わずか14歳で結核のためにこの世を去りました。
エミリアの墓は、ワルシャワのポヴォンスキ墓地にあり、次のような碑銘が刻まれています。
エミリア・ショパン
生涯十四度目の
春にうつろいぬ
実を結ぶ
美しき
望みを咲かせし
花の如く
【ショパンとの関連】
*ショパンはエミリアのことをエミルカという愛称で呼んで特に可愛がったそうです。
*1826年の夏休みに、母親ユスティナとフリデリック、ルドヴィカ、エミリアの三人の子供達はマルチ医師の勧めで有名な鉱泉保養地であるライネルツに湯治へ行きました。
*ショパンが高等学校時代に文学や演劇などに興味を抱き、姉妹や寄宿生たちと一緒に文芸娯楽協会
という団体を作りました。ショパンが会長、エミリアが事務局長を務め、会員には学校や寄宿舎の友人たちが名を連ねていました。この会では会員1人1人が創作する文学作品を読み合う会を開いたり、家族や親友たちのお祝いごとや祭日など、いろいろな機会に上演活動(家庭劇場)を行ったりしていました。
*1827年3月12日付、ビャウォブウォツキという大親友に宛てた手紙の中でショパンはエミリアの病状について次のように書いています。「エミリアは先月から床についている。彼女はせきをしはじめ、そして喀血した。母は驚いてしまった。マルチ先生は血をとるよう命じた。1回、2回と取った。そして数えきれぬほど蛭、発泡膏、からし泥、トリカブトをはったが、どれもむだだった。この間ずっとなにも食べず、君が見ても彼女だとわからぬぐらいやせ細った。」
*ショパンの父ミコワイの最も古い友人で、タバコ工場につとめていた時代の仲間であり、次女イザベラの名付け親でもあったニコラス・ベニグが、エミリアが息をひきとった同じ月に死去しました。
また、少年時代のショパンの最良の親友であったヤン・ビャウォブウォツキもエミリアが亡くなった同じ年1827年の年末に死去しました。同じ年に、妹エミリア、父ミコワイの親友、ショパンの大親友の三人が亡くなるという大変な一年でした。
*1827年4月10日にエミリアが他界して間もなく、ショパン一家はカジミエシュ宮そばの建物からチャプスキ宮の南別棟へ引っ越しました。ショパンは、エミリアの死の悲しみから立ち直り、弱りきった体力の回復につとめるため、この引っ越しの間、ジェヴァノフスキ一一族の親類であるズボインスキ伯爵の領地コヴァレヴォに休暇にでかけ、この田舎の地で自然と親しみました。