ヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙
1825年12月24日、ジェラゾヴァ・ヴォーラにて。複製。オリジナルは第二次世界大戦中に、ワルシャワ古文書館から紛失。
ヤン・ビャウォブウォツキ Jan Bialoblocki(1805-1827)は、ショパンの少年時代(1825年以降)の最良の親友で、ショパンより5歳年上の青年です。愛称はヤス、ヤシュ、ヤッシャ。
彼はショパンのあらゆる関心事、願望について告白することのできる最良の話し相手でした。ショパン家の寄宿生でもあり、ワルシャワ中学校では、後にショパンの姉ルドヴィカの夫となるイェンジェイェヴィチと同窓でした。
ヤンが脚に患いを得たままワルシャワを離れ、故郷ソコウォーヴォに帰ってからというもの、ショパンは身辺上の出来事を細大もらさず彼に報告して自分の気持ちを吐露し、自分が書いたマズルカや気に入ったミツキェヴィチの詩や、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』のアリアを送ったりしながら、矢のように手紙を書き送りました。
そして彼からの返事を心待ちにし、相手が自分ほど筆まめでなかったり、自分のように何でも打ち明けてくれないということで怒ったりもしました。
ビャウォブウォツキの病気は当時不治の病とされた骨の結核と推測されていますが、当時のショパンにはこの病気の重さが充分にはわかっていませんでした。
ショパンのビャウォブウォツキ宛の手紙の文面から彼が非常に礼儀正しい音楽好きな美少年であったことが伺えます。長く患った関節結核の悪化で22年の短い生涯を閉じました。
ビャウォブウォツキは少年時代のショパンにとって最良の友人でしたが、彼の死後はティトゥス・ヴォイチェホフスキがそれに代わる役割をはたすことになります。
【ショパンとの関連】
*早逝したポーランドのピアニスト、アレクサンデル・レムビーリンスキーの演奏を聴いたショパンは、1825年10月30日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「僕がいままで聴いた誰よりもうまくピアノを弾いた。今度のようにほんとうに完璧な演奏を一度も聴いたことのない僕たちのようなものに、これがどんな喜びだったか君は想像できるだろう。彼の速い、なめらかな、ふくらみのある演奏についてもっとくわしく書きたいのだが、1つだけ言っておくよ。彼の左手は右手と同じ強さに発達しているのだ。1人の人間で右と左と同じなんていうことは、まれに見ることだ。彼のすばらしい才能について書くには1ページ以上必要だが」と絶賛しています。
*1825年10月30日のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』を観に行ったこと、このオペラが大好きなことを書いています。
*1825年11月のビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、「『セビリャの理髪師』の主題による『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲した。友人達は大変喜んでくれている。明日石版印刷屋にひきわたすつもりでいる。」と書いていますが、この作品の楽譜は現存していません。
*1825年11月にビャウォブウォツキに宛てた手紙に「ルドヴィカ[ショパンの姉]がすばらしいマズルカを書いた。ワルシャワがここ久しくこんな音楽で踊ったことのないようなものだ。彼女の最高峰だ、いやこの種のものの比べるものなきだ。はつらつとしていて、魅力的だ。一言でいえば、理想的なダンス曲で、しかも誇張なしに絶品である。君が帰って来たら弾いてあげるよ」と書いています。しかし、この作品の楽譜は確認されていません。
*ショパンは高校の最終学年の時、学校のミサでのオルガニストに任命され、得意になって1825年11月のビャウォブウォツキ宛の手紙で次のようにユーモアを交えて自慢しています。「僕は高校のオルガニストになったぞ(中略)どうじゃ、如何でござるかな?拙者もなかなかやるであろう!学校中で教区司祭様の次に偉いお方だぞ!」
*1826年5月15日付、ビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキー[早逝したポーランドのピアニスト]によく会う。2、3日前に会いに来てくれてぼくは大喜びだ」と書いています。
*1826年6月のビャウォブウォツキ宛手紙に「レムビーリンスキーのワルツから数曲を送った。これは君に喜んでもらえるにちがいない。そのうちの2、3曲は、はじめはむずかしいかも知れないが、君の硬い指を動かし始めるにはちょうどよい。(中略)これらは君にふさわしいものだというのがわかると思う。君と同じく立派な曲だよ」と書いています。
*ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、フンメル、リース、カルクブレンナーが、当時のショパンの教材であったことを語っています。
*1826年10月2日付ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で「ブロジンスキ、ベントコフスキなどの講義や音楽に関係のある授業には出ている。」と書いています。
ブロジンスキは、ポーランドの詩人、批評家、文芸理論家でワルシャワ大学教授。ショパン家のサロンの常連の1人でした。
*病気療養のためビイスキュピックにいるビャウォブウォツキに、ショパンが手紙を出す際に、宛先住所を知らなかったので、ワルシャワにいたヤンの妹(または姉)、コンスタンスに手紙を託しました。
*ショパンの1827年1月8日付、ビャウォブウォツキ宛の手紙の中で、ポーランドの女流ピアニストであるマリア・シマノフスカの演奏会に行く予定だと、書いています。
*ショパンは1827年1月8日付のビャウォブウォツキ宛の手紙で、「ぼくの《マズルカ》[2つのマズルカ(ト長調)と(変ロ長調)のうちの1曲(作品番号なし)、1826年作で同年出版]を送る。君の知っている方だ。もう1つの方は今でなくあとで送る。こうしないと君に一時にあんまりたくさんの楽しみができてしまうからだ。これらの《マズルカ》はもう出版されている。」と書いています。
*ショパンは1827年3月14日付のヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、ヤンがもう死んでしまったという噂のことに触れ「君は今生きているのか?それとも生きていないのか?」と尋ねています。この時ヤンはまだ死んではいませんでしたが、それから間もなく死んでしまいました。ビャウォブウォツキの死(1827年末)はショパンの一番下の妹エミリアの死(1827年4月10日)と同じ年でした。
*1826年5月15日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に、ポーランドの貴族で政治家のザモイスキのところに行って、一晩じゅうドゥウゴシュの発明したピアノとオルガンが合体したエオロパンタレオンという楽器について讃えあったと書いています。
*ショパンはヤン・ビャウォブウォツキから楽譜を送ってほしいと依頼されて、父ミコワイに頼んでグリュクスベルグという楽譜商に行って来てもらいました。ショパンの1826年5月15日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙によると、この楽譜商は1ヶ月前でないと予約は受け付けないとか、カタログは1つもないのでどういう楽譜を選んでよいのかわからない。一度に楽譜は2、3冊しか貸し出さない。貸出料は月1ターレルもする。などと批判的に書いています。
*ショパンの1826年5月15日付、ヤン・ビャウォブウォツキ宛手紙に「2、3週間のうちに『魔弾の射手』が上演されるだろうと、ひどく噂になっている。これは大騒ぎになると思うよ。もちろん何べんも上演されるだろうが、まさにわれわれの歌劇団がウェーバーの有名作品を上演すること自体が大事件だ。しかし、ウェーバーが『魔弾の射手』で意図したねらいを考えると、あのドイツ的な主題、変わったロマンティシズム、特に凝った和音は、ロッシーニの軽いメロディーにならされたワルシャワの聴衆を考えると称賛をもって始まるだろうが、これは心の底からそう思っているのではなく、むしろ目利きのふりをしてのことにちがいない。というのはウェーバーはどこでも高尚ということになっているから。」と書いています。
*ヤン・ビャウォブウォツキ宛の手紙で、彼のために『魔弾の射手』のアリアを2曲買ったと書いています。