1818年2月24日、ショパン8歳の時、ラジヴィウ宮殿内の劇場で開かれた「貧しい人たちのための」慈善演奏会に出演し、イーロヴェツ作曲のピアノ協奏曲第5番を演奏しました。ショパンにとって生まれて初めての公開演奏会でしたが大変な評判となり、以後ワルシャワの貴族社会から注目されるようになりました。
この演奏会でショパンは、母親であるユスティナの作ってくれた大きなレースの襟を付け、黒いビロードの服を着て出演しました。しかし、あいにく病気だったユスティナは聴きに行くことができなかったために、帰宅したショパンに演奏会の様子をたずねたところ、聴衆の反応について「ママが下さったこのイギリス製の襟の評判がよかったよ」と答え、人々が爆笑したとの逸話があります。
今日は、ショパンが初めての公開演奏会で演奏した曲の作曲者、アダルベルト・イーロヴェツについてお話ししましょう。
イーロヴェツ、アダルベルト(ギロヴェツ、ギロヴェッツ) Gyrowetz,Adalbert 1763-1850
アダルベルト・イーロヴェツは、英語読みではギロヴェツ、ギロヴェッツとも呼ばれるボヘミア生まれの作曲家、指揮者です。生地の聖歌隊の指揮者であった父にピアノ、ヴァイオリン、作曲を、プラハで哲学と法律を学びました。語学の才能にも恵まれ、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、チェコ語を話し、ついにはラテン語も学んだそうです。
1784~85年ウィーンへ音楽の研鑽のため旅行しした際には、モーツァルトと交流し、モーツァルトの開いた演奏会でイーロヴェツの交響曲が演奏されたりもしました。また、ハイドンの崇拝者であり、実際にハイドンの補佐役を果たしたこともあります。作曲の際もハイドンの様式を手本としたため、イーロヴェツの手稿譜はしばしば誤ってハイドン作曲として出版されたこともあるそうです。
1793年以来ウィーンに定住し、1804~31の間ウィーン宮廷劇場の作曲家兼指揮者に就任しました。ベートーヴェンとも親交があり、ベートーヴェンの葬儀では棺の運び手の1人を務めました。
作品の大部分はウィーンのサロンの聴衆向けに書かれたものであり、その結果つまらない作品となることもありましたが、バランスのよさ、オーケストラを扱う技術の質の高さを見せています。多作家で、オペラ・オペラッタ約30曲、交響曲約60曲、弦楽四重奏曲約60曲、ピアノソナタ約40曲、ヴァイオリンソナタ約40曲、声楽曲約100曲など、出版作品も数多くあります。
現在ではほとんど忘れ去られた作曲家となっていますが、1820年代まで当時のウィーンで非常に人気があり、ベートーヴェンと並び称されるほどの存在でした。ショパンの初の公開演奏でイーロヴェツの曲が選ばれたのも、当時の人気からすると不思議ではありません。イーロヴェツは当時としては驚くほど長生きで、87歳まで生きましたが、あまりに長生きしすぎたため、流行の変化とともに人気はうすれていってしまいました。
【ショパンとの関連】
*1818年2月24日ショパンの初公開演奏会において、イーロヴェツの古典主義的作品で子供には決して弾きやすくないピアノ協奏曲第5番が演奏されました。
*1829年ショパンの1回目のウィーン訪問の時に開いた2回目の演奏会に、当時66歳になるイーロヴェツが足を運んでくれ、多くの聴衆に混じってショパンの演奏を聴き、惜しみない拍手を送って大声でブラボーを叫んでくれたそうです。