ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニの肖像。作者不詳の肖像画の写真。(19世紀後半)
ワルシャワ博物館所蔵
ロッシーニ、ジョアキーノ (1792~1868年)の本名はジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ Gioachino Antonio Rossini。イタリアの作曲家。美食家としても知られています。『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として最もよく知られていますが、宗教曲や室内楽曲をなども手がけています。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気がありました。
【ショパンとの関連】
*オペラが大好きなショパンは、ワルシャワでロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、モーツァルトなどのオペラ上演に必ず足を運んでいました。その中でもショパンが最も愛したオペラ作曲家はロッシーニでした。ショパンが1931年秋までにワルシャワ、ウィーン、プラハなどの都市で観劇したロッシーニのオペラは、『アルジェのイタリア女』『イタリアのトルコ人』『セビリャの理髪師』『泥棒かささぎ』『ラ・チェネレントラ』『オテロ』『湖の女』『マオメット2世』『セミラーミデ』『コリントの包囲』『モイーズとファラオン』『ギヨーム・テル』の12作品に及びます。
*1824年、ショパンがまだ高等学校に在籍中に、ロッシーニの『ラ・チェネレントラ』の主題を用いた『フルートとピアノのための変奏曲』(ホ長調)を作曲したとされていましたが、現在では偽作の可能性が高いということになっています。
*1825年10月30日のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪師』を観に行ったこと、このオペラが大好きなことを書いています。
*1825年11月のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、「『セビリャの理髪師』の主題による『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲した。友人達は大変喜んでくれている。明日石版印刷屋にひきわたすつもりでいる。」と書いていますが、この作品の楽譜は現存していません。
*1826年5月15日のヤン・ビャウォブウォツキ宛のショパンの手紙の中で、ディアベッリによるロッシーニ作品のピアノ編曲を含む曲集『エウテルベ(Euterpes)』を楽譜商から購入したと書いています。
*1826年6月、ショパンはロッシーニの『泥棒かささぎ』を観劇した後、『ポロネーズ』(変ロ短調)を作曲しましたが、その自筆譜のトリオ冒頭に「さようなら!(泥棒かささぎのアリアによる)」と書き、このオペラの第1幕ジャンネットのカヴァティーナ(この胸の中においで)の旋律が使われています。
*ショパンは1828年の夏じゅうサンニキ村にあるプルシャク家で休暇を過ごしていましたが、大好きな『セビリャの理髪師』を観劇するためにワルシャワに戻りました。しかし、歌手の出来の悪さに落胆したことを同年9月9日付ティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛ての手紙に書いています。
*1829年、ショパン1回目のウィーン訪問中にロッシーニのオペラ『ラ・チェネレントラ』を堪能しました。
*1829年、1回目のウィーン訪問からの帰路、テプリッツに立ち寄った際、ショパンはオーストリア皇室の出席するクラリー公邸での夜会で、ロッシーニの『モーゼ』から主題をとり即興演奏を行い、大成功を収めました。
*1831年7月、ショパン2回目のウィーン訪問中にロッシーニの『コリントの包囲』を観劇し、同年7月16日付家族宛ての手紙の中で絶賛しています。
*1831年12月にショパンはパリに到着して真っ先にロッシーニを紹介してもらい大喜びをしています。
*パリに移住後もショパンは度々ロッシーニのオペラを観劇し、パリの声楽家たちの演じる『アルジェのイタリア女』『セビリャの理髪師』『ラ・チェネレントラ』『オテロ』『ギヨーム・テル』などを絶賛しています。