ヴォイチェフ・ジヴニーの肖像
1829年のアンブロジ・ミェロシェフスキの肖像画を 1969年にヤドヴィガ・クニツカ=ボガツカが復元したもの。ワルシャワ博物館所蔵。
ヴォイチェフ・ジヴニー Wojciech Zywny(1756-1842)はショパンの最初のピアノ教師です。 ショパンのように優れたピアニストを育て上げた先生ですから、さぞ立派な経歴のある大御所の 先生かと思いきや、実際はかなり風変わりでユニークな先生だったようですね。
チェコの出身で、ヴァイオリニスト兼作曲家兼ピアノ教師という肩書からすると、ピアノよりも ヴァイオリンの方が専門だったようですね。 最初、ザピェハ侯爵お抱えの宮廷音楽士としてワルシャワに移住して来ました。
その後、ポーラ ンド分割のためにその職を失い、以後はピアノの出張教授として朝早くから夜遅くまでワルシャ ワの街を歩き回ってあちこちでレッスンをしていました。
背が高く、鼻は巨大で、歯は欠けていて、山羊ひげがあり、ガラガラ声で、いつも横っちょに曲 がった金髪のかつらを着け、眼鏡をかけ、裾までとどく長い緑のフロックコートの後ろのポケッ トから格子柄の赤いハンカチをたらし、夏でも冬でも同じドイツ製の房飾りのついたひざまであ るブーツをはき、ベルベットの短い上着を欠かさないという超個性的な風貌だったようです。
いつも嗅ぎ煙草を嗅ぎ、レッスンのあいだ鍵盤の上にタバコをいっぱいまく癖があり、教えるの に夢中になると、タバコの灰に気付かないために、服に焼け焦げを作ることもありました。
噂では彼は結構な金持ちと言われていましたが、自分では貧 乏だと言い張り、レッスンが終わってもぐずぐずといすわって食事にありつこうとしました。
でも、彼はユーモアのセンスがあり、最新の噂話をいつも仕入れていて、それをポーランド語、 ドイツ語、チェコ語、フランス語を交えて面白おかしく話すので、いつもみんなから歓迎された そうです。
ショパン自身も彼のことを「人のよいみんなの慰めの種」と書いています。 ジヴニーはショパンの才能に目を見張り、他の大半の生徒を放り出してショパンに熱中し、レッ スンがあってもなくてもショパン家を毎日のように訪れ、町中に「モーツァルトの再来」とふれ まわりました。
ショパンが彼の手を離れた後も、ショパン一家の一員として厚くもてなされ、相変わらず家庭音 楽会でピアノを弾き、トランプの相手をし、子供達の相手となって楽しい余生を過ごしたそうで す。
【ショパンとの関連】
*ジヴニーはもともと、ショパンの父ミコワイが経営していた寄宿舎の生徒たちのための音楽教 師として雇われました。
1816年、ショパン6歳の頃よりショパンもジヴニーからピアノを習いはじめました。彼ははじめ の5年間にバッハとモーツァルトの音楽に対する賛美と崇拝の念をショパンに教え込みました。
彼は他にハイドン、ベートーヴェン、フンメル、ギロヴェッツ、フィールドなどを教え、エチュー ドとしてはクラーマー、クレメンティなどが教材となったと推測されています。 バッハは今でこそ有名ですが、当時はほとんど無名で、そんな時代に教材に取り入れたのは先見 性があり、ショパンが作曲する上でも大いに影響を受けています。
ジヴニーはヴィルティオーゾタイプの教師ではなかったが、ショパンの個性を重んじ、その音楽 的な趣味や才能をうまく育む独自の教育法がショパンには最適でした。
ショパンは彼に習いはじめて2年後には初の公開演奏を開いています。そして、11歳になるとジ ヴニーよりも上手に弾けるようになり、1822年に彼の手を離れましたが、ショパン家との交友は 続き、寄宿生たちの音楽教育を受け持ちました。
*1821年、11歳の時、「命名日(自分と同じ名前のキリスト教の聖人を祝う日)」にショパンは ジヴニーに『ポロネーズ変イ長調』を献呈しましたが、これはショパンの手書きとして現存する 最初の作品です。
*ショパンはいつまでも彼を慕い、後年になってからも「ジブニー先生には誰が習ってもうまく なる」と言っていました。