ショパンとパガニーニ

ニッコロ・パガニーニの肖像。エリザ・ラジヴィウーヴナ作。
アルバムに描かれた鉛筆画(1829年)。複製。ワルシャワ博物館所蔵。

エリザはポーランドの大貴族ラジヴィウ公 の上の娘。ラジヴィウ公はショパンに音楽家としての知識や自身をもたせるうえで重要な存在と なった恩人です。エリザはショパンの肖像も描いています。

ニッコロ・パガニー ニ Niccolo Paganini(1782-1840年)イタリアのヴァイオリン、ヴィオラ、ギター奏者、作曲家。超人的演 奏によって神話的に伝えられるヴァイオリンのヴィルトゥオーソで、重音の美しさ、スタッカー トやハーモニクスの効果、左手によるピッツィカートの技法などで聴衆を魅了しました。

1828~34年にかけてヨーロッパ中を巡り、至るところで熱狂を巻き起こしました。ウィーン、 パリ、ドイツ、オーストリア、ボヘミア、ザクセン、ポーランド、バイエルン、プロイセン、ラ インラント諸州を次々に訪れ演奏会を開きました。

パガニーニは当時のヴァイオリン奏 者、ピアニスト、作曲家、画家、作家を問わず、ロマン派の芸術家達を魅了しました。その中に は、ショパン、シューマン、リスト、ゴーティエ、ゲー テ、ハイネといった人々がいます。

また、パガニーニの作品の技術的な難しさ、とりわ け『24のカプリース』の難しさが多くの作曲家(ショパン、シューマン、リスト、ブラームス、 ラフマニノフ、カゼッラ、カステルヌォーヴォ・テデスコ、ルトスワフスキ、ダッラピッコラな ど)に霊感を与えました。

【ショパンとの関連】

パガニーニは1829年5月23~7月19日の間ワル シャワに滞在し、11回の演奏会を開きました。この時ショパンはパガニーニの演奏会の大半を聴 いて、これ以上ないというほどの深い印象を残しました。ショパンはパガニーニにとりつかれて、 『パガニーニの思い出』というピアノの小品を作曲するほどでした。

また、ショパンは、 パガニーニの演奏に感化され、楽器と奏法と表 現、音楽における演奏技巧という問題に強い興味を抱きました。そして、ピアノの演奏技巧を極 め、ピアノの表現力の拡大を目指し、自分の奏法を確立するためにエテュードを作曲する大きな 原動力になりました。

ショパンのパスポート

作曲家の中でショパンほど肖像画が多い人はいないのではないでしょうか?ちょっと調べただけでも25種類以上あります。

それだけ肖像画があっても、まだ解明していないショパンの身体的特徴があります。

それは、瞳の色です。

ブルー説とブラウン説があってどちらが真実なのか、いまだに解決していません。

唯一残されている写真は白黒なので、参考になりません。

カラーで描かれた肖像画のほとんどは、ショパンの瞳はブラウンで描かれています。

ショパンが学生時代に近所に住んでいた友人の証言では、ショパンの瞳の色は「ビール色」「ハシバミ色」と表現していて、いずれもブラウン系の色です。

ショパンがパリ時代によく会っていたフランツ・リストはショパンの瞳はブルーだったと述べています。

人種的にみると、ポーランド人には青や緑、灰色といった瞳が多いようです。また、フランス人の瞳の色の種類は、まるでクレヨンの色の数ほどあるそうで、フランス人のパスポートには、個人識別のために瞳の色も記載されているほどです。

ショパンは、ポーランド人の母とフランス人の父の混血ですから、遺伝的に考えても、瞳の色は何色でもありえることになりますね。

そんな中、一番参考になりそうな公的文書が残っています。

フランス警察発行のショパンのパスポートの写しです。

1837年7月7日、ショパンがイギリスに旅行に行く際に発行されたもので、番号3546と、ショパンの身体上の特徴が記入されています。

身体的特徴

年齢:26歳

身長:170cm

髪:ブロンド

額:ノーマル

まゆ毛:ブロンド

瞳:灰青色

鼻:ノーマル

口:ノーマル

ひげ:ブロンド

あご:丸型

顔:卵型肌:白色

これによると、瞳は「灰青色」となっています。

こうなると、公文書に書かれているブルー説が有力になりますね。

ショパンの成績表

ワルシャワ音楽院院長によるショパンの卒業成績表。複製。ワルシャワ博物館所蔵。

ショパンが16歳の時、1826年9月にワルシャワ音楽院に入学しました。

ショパンは週に3回2時間ずつJ・エルスネル院長から対位法と作曲のレッスンを受けました。

ショパンは音楽院1年生で、《マズルカ風ロンド》ヘ長調(op.5)、《三つのエコセーズ》(op.72-3)、《ポロネーズ》変ロ短調、《マズルカ》ト長調、《マズルカ》変ロ長調などを次々に作曲しています。

2年生の時に作ったオーケストラとピアノによる作品《モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のアリア〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ〉による変奏曲》変ロ長調はたいへんな評判になりました。

3年生でも引き続きオーケストラとピアノによる作品を2曲作曲します。《ポーランド民謡による大幻想曲》イ長調と《ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク》です。

賢明なエルスネルはショパンの才能はピアノ音楽においてこそ最も十全に発揮されることを見抜いていたので、作曲科の他の弟子とは違ってショパンには交響曲やオラトリオ、あるいはミサ曲などを無理に書かせることはしませんでした。

ショパンの最初のピアノ教師ジヴニーにしても、音楽院のエルスネルにしても、ショパンの才能を理想的な方法で引き出せたことは、ほんとうに奇跡的ですね。

1829年7月20日に、ショパンはワルシャワ音楽院を主席で卒業しました。

卒業に際してJ・エルスネル院長はショパンを「特殊な才能の持ち主、音楽の天才」と評価しました。

この文書のオリジナルは1939年まで『音楽院に関する政府の宗教・教育委員会の公文書、第1巻、No.50』に収録されていましたが、第2次世界大戦中に紛失しました。

ショパンの最初のピアノ教師

ヴォイチェフ・ジヴニーの肖像

1829年のアンブロジ・ミェロシェフスキの肖像画を 1969年にヤドヴィガ・クニツカ=ボガツカが復元したもの。ワルシャワ博物館所蔵。

ヴォイチェフ・ジヴニー Wojciech Zywny(1756-1842)はショパンの最初のピアノ教師です。 ショパンのように優れたピアニストを育て上げた先生ですから、さぞ立派な経歴のある大御所の 先生かと思いきや、実際はかなり風変わりでユニークな先生だったようですね。

チェコの出身で、ヴァイオリニスト兼作曲家兼ピアノ教師という肩書からすると、ピアノよりも ヴァイオリンの方が専門だったようですね。 最初、ザピェハ侯爵お抱えの宮廷音楽士としてワルシャワに移住して来ました。

その後、ポーラ ンド分割のためにその職を失い、以後はピアノの出張教授として朝早くから夜遅くまでワルシャ ワの街を歩き回ってあちこちでレッスンをしていました。

背が高く、鼻は巨大で、歯は欠けていて、山羊ひげがあり、ガラガラ声で、いつも横っちょに曲 がった金髪のかつらを着け、眼鏡をかけ、裾までとどく長い緑のフロックコートの後ろのポケッ トから格子柄の赤いハンカチをたらし、夏でも冬でも同じドイツ製の房飾りのついたひざまであ るブーツをはき、ベルベットの短い上着を欠かさないという超個性的な風貌だったようです。

いつも嗅ぎ煙草を嗅ぎ、レッスンのあいだ鍵盤の上にタバコをいっぱいまく癖があり、教えるの に夢中になると、タバコの灰に気付かないために、服に焼け焦げを作ることもありました。

噂では彼は結構な金持ちと言われていましたが、自分では貧 乏だと言い張り、レッスンが終わってもぐずぐずといすわって食事にありつこうとしました。

でも、彼はユーモアのセンスがあり、最新の噂話をいつも仕入れていて、それをポーランド語、 ドイツ語、チェコ語、フランス語を交えて面白おかしく話すので、いつもみんなから歓迎された そうです。

ショパン自身も彼のことを「人のよいみんなの慰めの種」と書いています。 ジヴニーはショパンの才能に目を見張り、他の大半の生徒を放り出してショパンに熱中し、レッ スンがあってもなくてもショパン家を毎日のように訪れ、町中に「モーツァルトの再来」とふれ まわりました。

ショパンが彼の手を離れた後も、ショパン一家の一員として厚くもてなされ、相変わらず家庭音 楽会でピアノを弾き、トランプの相手をし、子供達の相手となって楽しい余生を過ごしたそうで す。

【ショパンとの関連】

*ジヴニーはもともと、ショパンの父ミコワイが経営していた寄宿舎の生徒たちのための音楽教 師として雇われました。

1816年、ショパン6歳の頃よりショパンもジヴニーからピアノを習いはじめました。彼ははじめ の5年間にバッハとモーツァルトの音楽に対する賛美と崇拝の念をショパンに教え込みました。

彼は他にハイドン、ベートーヴェン、フンメル、ギロヴェッツ、フィールドなどを教え、エチュー ドとしてはクラーマー、クレメンティなどが教材となったと推測されています。 バッハは今でこそ有名ですが、当時はほとんど無名で、そんな時代に教材に取り入れたのは先見 性があり、ショパンが作曲する上でも大いに影響を受けています。

ジヴニーはヴィルティオーゾタイプの教師ではなかったが、ショパンの個性を重んじ、その音楽 的な趣味や才能をうまく育む独自の教育法がショパンには最適でした。

ショパンは彼に習いはじめて2年後には初の公開演奏を開いています。そして、11歳になるとジ ヴニーよりも上手に弾けるようになり、1822年に彼の手を離れましたが、ショパン家との交友は 続き、寄宿生たちの音楽教育を受け持ちました。

*1821年、11歳の時、「命名日(自分と同じ名前のキリスト教の聖人を祝う日)」にショパンは ジヴニーに『ポロネーズ変イ長調』を献呈しましたが、これはショパンの手書きとして現存する 最初の作品です。

*ショパンはいつまでも彼を慕い、後年になってからも「ジブニー先生には誰が習ってもうまく なる」と言っていました。

6歳のショパンが父親に送ったお祝いカード

日本では生まれた日を記念して毎年誕生日を祝うのが普通ですが、ポーランドには誕生日とは別に命名日のお祝いをする習慣があります。

この命名日というのは、365日すべての日にキリスト教守護聖人の名前が振り当てられていて、自分の名前(または洗礼名)と同じ聖人の名前の日がその人の命名日となります。また、生まれた日の聖人の名前をそのまま名前として付けることもよくあるそうです。

中年以降になると、誕生日よりも、この命名日の方を盛大に祝うことが多くなるそうですね。

さて、ショパンの父親ミコワイの命名日は12月6日で、ショパンが6歳の時に、ミコワイに贈った命名日のお祝いのカードが残っています。

「僕のパパへ。みんなに祝福されるこの日に、僕もパパの幸せを、けっして不幸のない幸運にいつまでも恵まれていることを祈っています。そうであることを心から願って。F・ショパン。今日、1816年12月6日。」

カード中央上部にNとCを組み合わせた飾り文字(父のイニシャル)があります。そして、内側にスペースをつくるように弧を描いて、左に柏、右にオリーブの枝を配置し、下をリボンで結び、そのすぐ上に署名と日付を記入しています。

中央にポーランド語で6行の祝詞が書き込まれていますが、この詩は1行のシラブルの数が揃えられ、行末の文字は、aabccbと韻を踏んでいるという凝ったつくりになっています。

6歳のショパンが、絵を描き、文章を作り、文字を書いたとされていますが、おそらく家族の誰かからなんらかの手ほどきを受けたものでしょうね。

現物は縦約32センチ、横約25センチで、現在はワルシャワのショパン協会が所蔵しています。

若きショパンの容姿

ショパン愛好家としては、ショパンの容姿がどんなだったか、大いに気になるところですが、幸いにいろいろな人が描いた肖像画が残っていますし、晩年に撮った唯一の写真まであります。

今日はその中から、19 歳の若きショパンを描いた肖像画を紹介します。

1829年にアンブロジ・ミェロシェフスキが描いた原画にもとづいて、1968年にアンナ・ハミェツが模写したミニチュアです。

なかなかイケメンの聡明な青年の姿に描かれていますね。我々の想像するショパンのイメージにぴったりです。

でも肖像画は写真ではありませんから、真実がありのまま描かれているとは限りません。画家の主観が入ったり、モデルの要求とかで、実際よりも良く描かれることも多いです。

そんな時は、ショパンと同時代に生きていた人たちの証言も参考になります。

幸いに、ショパンの容姿について、当時近所に住んでいた人物が書いた文章も残っています。

ショパンが高等学校に通学していた頃、ショパン家と同じ建物に住んでいた、ワルシャワ大学の教授がいました。その息子のスクロツキ・エウゲニウシュは、当時まだ10歳に満たない小学生でしたが、当時のショパンについてのエピソードを、ショパンの死後30年以上たった頃に女性週刊誌に投稿しています。

1882年発行のポーランドの女性週刊誌『ブルシュチュ』に、『わが青春のショパン、回想のいくつか』というタイトル、ヴィエリスワフというペンネームで、ワルシャワ高等学校時代のショパンについての容姿や裏話などを書いているのです。

エウゲニウシュによると、当時のショパンの容姿について、次のように表現しています。

「美しい秀でた額」

「ビール色をした表情豊かな優しい目」

「ハシバミ色の瞳」

「髪はふさふさして濃く、父と同じように強い縮れ毛で、わずかに赤茶けた色合い」

「大きな鼻が容貌に際立った特徴を与えていたが、全体としてみるとその目鼻立ちは美しいと呼ぶわけにはいかなかった。それにもかかわらずショパンの顔はこのうえなく魅力的な印象を与えた」

この文章はまるで上の肖像画を見て書いたかのようにイメージがぴったりですね!

これでミェロシェフスキの描いたショパン像の裏付けになりました。

コペルニクスとショパン

ポーランドの三大偉人といえば、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人が挙げられますが、今日は、コペルニクスとショパンの関係についてお話ししましょう。

ニコラウス・コペルニクス(1473 – 1543)はポーランドのトルンという街で生まれました。トルン旧市街にある彼の生家は「コペルニクス博物館」として公開されています。

天文学史上最も重要な再発見とされる地動説を唱えた天文学者として知られるコペルニクスですが、他の学問にも秀で、数学者・法学者・医者・占星術師・詩人としても活躍しました。さらに教会においては司祭を、政治の世界では県知事や行政長官を務めていたこともある、多才な人物だったようです。

【ショパンとの関連】

1824年と翌25年の高等中学時代の夏休みに、ショパンは、親友ドミニク・ジェヴァノフスキの実家があったシャファルニアという田舎町で過ごしています。1825年の2度目の滞在中にショパンはトルンにも足を伸ばし、コペルニクスの生家を訪れています。

同年8月、ショパンは親友ヤン・マトゥシンスキ宛に手紙を書き、大天文学者コペルニクスの生家を見学した時の深い感動を綴っています。

ショパンがコペルニクスの生家を訪れた時に、後になって自分が彼と並び称されるほど有名なポーランド人になるとは夢にも思っていなかったでしょうね。

現在コペルニクス博物館になっているところが、生家とされていますが、ショパンの時代にはなぜか他の場所がコペルニクスの生家として公開されていたそうです。

コペルニクスの生家(コペルニクス博物館)

ショパンが高校時代に礼拝のオルガニストを務めた教会

ヴィトジキ教会は、17世紀にヤクブ・フォンタナの設計によって建てられた、ワルシャワで唯一 のロココ様式の教会です。幾多の戦火をくぐり抜け、奇跡的に破壊を免れたため、現在でもほと んど原型を保っている貴重な教会です。

写真上:教会の外観の絵。原画はZ.フォーゲル作の水彩画(ヤドヴィガ・ネウゲバウエ ルによる複製)

写真下左:教会内部、右:教会のオルガン

【ショパンとの関連】

*ヴィジトキ教会のすぐ近くに、ショパンが通っていた中・高等学校 (ワルシャワ・リツェウム )と音楽学校がありました。

*毎週日曜日にヴィジトキ教会で、ワルシャワ・リツェウムの生徒のためのミサが行われていま した。

*ショパンが高等学校の最終学年を迎えた1825年に、学校の日曜礼拝のオルガニストに指名され て、ヴィジトキ教会でパイプオルガンを弾くことになりました。

このことに関して、1825年11月にショパンが親友ヤン・ビャウォブォツキに宛てた手紙の中で、次のようにユーモ アを交え誇らしげに書いています。「いやはや、閣下よ、僕は何て人間だろう。教区司祭殿に次 いでリツェウムの中でいちばん偉い人物になったのだ。日曜日ごとにヴィジトキ教会で僕がオル ガンを弾き、ほかの人たちが歌っているのだ」

この教会のオルガンはショパンの時代から変わることなく現在も残っています。オルガ ンのパイプの大部分は取り替えられましたが、2~3本はショパンが弾いていた当時のまま残って いるものもあるそうです。

世界一の歌姫がショパンに贈った金時計

今日は、イタリアのソプラノ歌手で、当時「世界一の歌姫」と称されていたカタラーニ、アンジェリカ(Catalani,Angelica  1780-1849)を紹介します。

カタラーニは、聖歌隊のバス歌手の娘で、修道院で学びましたが、正規の音楽教育はほとんど受けていません。

17歳の時に、ヴェネチアでデビューした後、ミラノ、リスボン、ロンドンなどで大成功を収め、1814年から4年間、パリのイタリア劇場の監督を務めました。その後10年間、ヨーロッパ各地を演奏旅行したあと引退しました。

音域の広さ、表情豊かな美しい歌唱、さらに美貌も加わって人気を博したといいます。

特にその素晴らしい声量については、ロンドンの音楽愛好家が、彼女の歌を聴きにヨークまで出掛けたいと思うが、と言ったのに対し、「いまいるところで充分聴こえますよ」と答えたという伝説が残っています。

ちなみに、ロンドンからヨークまでは現代の列車でも2時間もかかる距離です。

【ショパンとの関連】

*1820年1月ワルシャワの公会堂で、カタラーニが4回の音楽会を開いた時、当時10歳のショパンの噂を聞きつけ、自分の所へ連れて来させ演奏させました。

その時のショパンの演奏と即興に感動し、金時計を贈りました。この時計の蓋にはフランス語で「マダム・カタラーニ、10歳のフレデリック・ショパンに贈る」と彫り込んであります。

ショパンはこの時計を終生手放さなかったといいます。現在この時計はワルシャワのショパン協会が所蔵しています。

*ショパンもカタラーニのソプラノに感動し、それがのちのピアノ曲の声楽的要素にも生かされることとなったといわれています。

*ショパンが15歳の夏休みに、友人の故郷であるシャファルニアという田舎に滞在しました。その地で歌のうまい女性に「カタラーニ」とあだ名を付け、3銭やってその歌を聴いたという話が、1824年8月29日付の家族宛の手紙の中に出てきます。

ショパンの描いた校長先生の似顔絵

今日は、ショパンが通学したワルシャワ高等中学校(リツェウム)の校長先生についてお話ししましょう。

名前は、リンデ校長。フルネームはサムエル・ボグミウ、リンデ(Samuel Bogumil, Linde)といいます。 1771年生まれで、ショパンのお父さんと同じ年で、没年は1847年です。

専門は言語学で、主著に『ポーランド語辞典』全6巻があり、これはポーランドで初めて編纂された国語辞典として有名です。

【ショパンとの関連】

*ショパン一家が故郷のジェラゾワ・ヴォラからワルシャワに移り住む際に、リンデ校長の親切な取り計らいにより、ワルシャワ高等中学校のフランス語教師の職がショパンの父ミコワイに与えられました。

*ショパン一家がワルシャワに住んでいた頃の隣人でもあり、ショパン家とは家族ぐるみで親しく交際していました。

*ショパンが高等中学時代、リンデ先生は聖書を教えていました。その授業中にショパンがリンデの似顔絵を描いているのが見つかってしまいましたが、彼は別に叱りもしないで、よく描けていると誉めたといいます。ショパンは音楽ばかりでなく、絵の才能もあったんですね!

ショパンが授業中に描いたリンデ校長の似顔絵(ショパンおもしろ雑学事典より)

*リンデ校長の妻のルドヴィカ (Ludwika Nussbaum) は1825年にショパンから『ロンドop.1ハ短調』を献呈されました。

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